この時ナポレオンの集結命令をもらい、北から本軍へ合流しようとダヴ―元帥の軍団が南下していました。アウエルシュタットに通りかかったところ、偶然ブラウンシュヴァイク公のプロイセン本軍と衝突したことによって戦闘が始まりました。
ダヴ―元帥はその冷徹さと完璧さから鉄の元帥といわれており、2万5千人ほどを指揮していました。対してブラウンシュヴァイク公は6万人を有し、プロイセン側に2倍以上の兵力がありました。あたり一帯濃霧に包まれ、双方相手の位置を直前まで把握できない気候でした。
プロイセン軍に前方の脅威についての報告が入ったとき、ブラウンシュヴァイク公は敵を少数の模索部隊であると過小評価します。彼の推定によると大陸軍はホーエンローエ王子によって錯乱され、より南に位置しているはずでした。またブラウンシュヴァイク公はプロイセン軍の質を信じており、ブリュッヒャー将軍が騎兵のみで前方の脅威を蹴散らせると助言したときに許可を与えます。
午前8時ごろ、ブルッヒャー将軍は数千人の騎兵を集めて未知の敵に突撃を開始しました。ダヴ―元帥の先方部隊を蹴散らすと進み続けます。この攻撃から逃げてきた大陸軍の騎兵が、プロイセン騎兵の到来を忠告するとダヴ―元帥は方陣という、騎兵に対抗する陣形に歩兵を組み替えます。方陣とは兵を四角形に並ばせることであり、全方位をカバーすることで騎兵が背後に回ることを防ぐ効果があります。この変形はたった30秒で完了し、まもなくプロイセン騎兵が霧の中から姿を現し始めます。プロイセン騎兵は繰り返し大陸軍の方陣に突撃を繰り返しますが、歩兵や大砲のサポートがないことには綺麗に整列された方陣の中に侵入することができず、次第に撃ち殺されていきます。ブリュッヒャー将軍は蹴散らされた騎兵を集めようとする最中馬が撃たれ、退却の命令も遅れたため損害が甚大となってしまいました。
騎兵が撃退されたすぐ後にプロイセン軍の最初の歩兵師団が到着しダヴ―の軍団と衝突します。ブラウンシュヴァイク公はまだ軍隊の優勢を信じていたため、他の師団の準備をまたずに単体攻撃の許可をだします。第一師団が攻撃する間、彼は南北に馬を走らせ、到着しつつある第2師団を攻撃の陣形へとガイドします。このような動作は、常に中央に立ち続けるナポレオンやダヴ―元帥とは対照的でした。常時動き回っているため、伝令がブラウンシュヴァイク公をみつけにくくなり混乱と遅延を呼びました。対してダヴ―元帥は高地に立っており、プロイセン軍の動きが目視できるため、迅速に命令を下すことができました。
このような命令速度の差から、色々な位置や角度で攻撃してくるプロイセン軍に合わせ、部隊を再配置することができます。9時30分ごろ継続的なプロイセン軍の合流で兵力差は2倍になるものの、プロイセン軍は指揮の乱れによって同時に攻撃を仕掛けていないため大陸軍を崩すことはできません。そしてついに前線で指揮していたブラウンシュヴァイク公の目が撃ち抜かれ、命令を下せなくなりました。
戦いの混乱の最中、ブラウンシュヴァイク公の負傷の知らせはしばらくヴィルヘルム3世に届かず、さらに指揮を継承するはずのカルクロイト将軍がそもそも戦場に到着していませんでした。伝令はいるはずのブラウンシュヴァイク公を探し回り、部隊同士の連携は取れなくなり各部隊が別々に戦うようになっていました。より上級の指揮官からの命令がなければ何も行動してはいけない規則でしたので、まだ投入されていない部隊は指をくわえてみているだけです。さらにブラウンシュヴァイク公の負傷がヴィルヘルム3世に届いたとき、なんと王は代わりの最高司令官を指名しませんでした。プロイセン軍がカオスと化す中、ダヴ―元帥とその軍は防衛から攻勢へと移り、2倍のプロイセン軍を押し戻します。12時ごろ、ヴィルヘルム3世は退却命令を出します。プロイセン軍はアウエルシュタットの狭い道を通過して退却を試みたため部隊は密集陣形を保てなくなり、フランス軍の追撃も相まって一人一人が個別に行動し始めてしまいました。1時間後には全ての組織的抵抗がなくなり、分散したプロイセン軍は夜まで追撃され、最終的には大陸軍の2倍の損害を被りました。
アウエルシュタットの戦いは倍以上の相手に倍の損害をあたえたという稀な戦いであり、その大きな要因はダヴ―元帥の速球で正確な部隊の再配置にありました。プロイセン軍は始めに騎兵だけを突撃させ、次に歩兵を攻撃させましたが、これらの孤立した攻撃は大陸軍の歩兵、砲兵、騎兵のコンビネーションに一つ一つ撃退されました。動きが遅く指揮官が不在となったプロイセン軍は流動的な大陸軍に勝ち目などなかったのです。