英雄ナポレオンはなぜ強かった?彼の軍隊構成とその効率性を徹底検証!~指揮系統編~

はじめに

ナポレオン戦争時のフランス軍(大陸軍)は10数年間無敵状態を維持し、ナポレオンは参加した約80回の戦いの内ほぼ全てに勝利しました。数々の歴史学者もナポレオンはカエサル、ハンニバルや、日本だと武田信玄など天才とされる軍事指導者を凌駕する人物だと認めています。

この強さの理由に関して、フランスのヨーロッパ1の人口や、肥沃な土地、フランス人の機転、気性の荒さなどもともと恵まれていたとも言われていますが、それよりもナポレオンと彼の部下たち、いわゆる元帥といわれる軍団を指揮する司令官たちの才能が大きな要因だとされています。

どのような面でナポレオンと彼の元帥達は優秀だったか分析していきましょう!

情報収集能力

歩く速さでしか軍隊は移動できず、伝令も手紙や口頭、楽器などでしか行うことのできない近世の戦争は相手の軍隊の位置や規模を早く正確に把握することが大変重要な行為でした。ナポレオンはこの競争に関して他国を追い抜くため、軽騎兵と呼ばれる小柄な騎兵を常に前に送り出し、昼夜問わず模索させました。

またそれによって入ってきた膨大な情報量を選別する必要があります。この業務は主にルイ=アレクサンドル=ベルティエ元帥と呼ばれる人物が行っていました。彼は工兵として訓練を積み、そこで培った論理的な思考を生かして大陸軍の参謀長として活躍しました。彼の業務はナポレオンの作戦を理解し、それを遂行できるかどうか様々な情報を検討しクレンジングしながらアドバイスしていくといったものです。

前線で戦うほど派手ではなく名誉も得られなかったため他国の貴族将校はこの役割の重大さを理解していませんでしたが、これを重視していたナポレオンは現実的で迅速な判断を下すことができました。

冷静さ、勇敢さ、人望の厚さ

近世の戦いにおいて軍隊はできるだけ密集する必要がありました。これは前述したように兵に命令を伝えるには楽器や叫ぶことでしか方法が無いため、歩兵は密集することでしか騎兵から身を守れないため、また仲間と共に行動するほうが安心感があるという理由があります。

このため指揮官は前線にいなければならず、元帥達は銃弾が自分たちをかすめる最中に数万人に対して冷静な判断を下す能力を持ち合わせていなければなりませんでした。また軍団の指揮を上げるためスピーチや脅しで戦闘意欲を高め、一番前で兵達をリードするという危険な仕事をこなしました。

大陸軍の元帥達は一般兵から昇進した人が多く、前線を経験した彼らはこれらのことに長けていました。一方で連合国側は貴族が主に将校を独占しており、前線から離れたところにいることが多かったため変化する状況に対応しきれませんでした。

さらに数十万単位で支持するナポレオンの命令に対し、より細かく指示を出すことができる元帥達は度々皇帝の命令を無視し流動性を高めることができました。ナポレオンも彼の元帥達を信用しており、逸脱した行動をしたときも寛容に受け止めました。

イエナ=アウエルシュタットで優劣と決め手となった指揮系統

コマンドシステムの大陸軍と他国の違いは、1806年にプロイセン=ザクセン連合軍と大陸軍との間で行われたイエナ=アウエルシュタットの戦い、特にアウエルシュタットで如実に現れます。この戦いの経緯と両側の指揮系統について解説していきます。

1805年、ナポレオンはアウステルリッツでオーストリア=ロシア連合軍に勝利し、オーストリアが管理していたドイツ諸国で構成されていたの神聖ローマ帝国を崩壊させました。代わりにドイツ地方にライン同盟という親フランスの組織を作り、軍隊を駐屯させます。このことはドイツ地方にオーストリアとならび影響力があったプロイセン王国を侮辱するものであり、1806年にヴィルヘルム3世はフランスに宣戦布告し軍隊をライン同盟地方へ南下させ始めました。

 

プロイセン=ザクセン連合軍の軍隊構成/指揮系統

ここで最初にプロイセン側の軍隊構成をみてみましょう。ベルリンを目指し侵攻してくる大陸軍を止めるために、ヴィルヘルム3世はライン同盟の北に位置するチューリンゲンに東西に防衛線を引く形で軍隊を収集させました。大陸軍がどこから北上してくるか不明なため広い範囲をカバーすることと軍隊全体の動きを錯乱するため、プロイセン軍は約15万人の軍隊を4つに分けます。

今回は戦いに参加した軍隊だけを紹介します。まずはヴィルヘルム3世自身が名目上率い、実質的には戦闘経験が豊富なブラウンシュヴァイク公が率いる6万人の軍隊です。次にホーエンローエの王子率いる左翼を守り、前述したとおり本軍の位置を錯乱させる役割を担った分隊です。プロイセンの将校貴族は度々意見が衝突し、実戦経験が乏しいヴィルヘルム3世はこれらの衝突を止められませんでした。特にホーエンローエ王子は部下にも作戦について干渉され、大胆な戦術を行使する力を持っていませんでした。

プロイセン軍は18世紀に活躍したヴィルヘルム2世の時代から大して進化しておらず、肥沃な土地からの大量徴収制度、厳格で繰り返される訓練、兵と下士官が将校命令に機械的に従うことが勝利を導くと信じられていました。規則を破った人は鞭を持った2列の間を叩かれながら歩かねばならず、戦闘中に逃亡するものは下士官がサーベルで切り殺すか別部隊の一斉射撃で撃たれるかの二択です。戦闘中の命令は規定された以外は基本的に発言してはならず、兵士たちは早さより綺麗に隊列を組みながら統制された動きで戦うことを求められていました。機械のように動く歩兵とは対照的に、プロイセン軍は騎兵に大量の資源とプライドをつぎ込んでいました。プロイセンは元々騎士団であったということも考えられます。

このシステムをナポレオンは、美術館の飾り物であると評価します。フリードリヒ2世から進化していない軍隊は古典的機能美を備えていますが、もはや実践では時代遅れな代物であるという意味です。

大陸軍の軍隊構成/指揮系統

厳格なプロイセン軍とは対照的に、大陸軍は軍団に細かくわかれており、軍団を指揮する元帥にかなりの判断がゆだねられていました。約18万人でドイツ地方に侵攻を開始し、それらの軍隊を8個の軍団に分けます。最高責任者はナポレオンであると誰もが承知しており、彼の命令は支障なく一日以内に元帥達にいきわたります。各軍団はナポレオンとその親衛隊を中心として一日で合流できる距離以内(30キロ)で分散し、ドイツの市町村から食料を略奪しながら高速で進むことができます。

また軍団の一つにミュラ元帥の騎兵軍団が含まれていました。この部隊は騎兵で構成されており敵にナポレオンの軍隊がどこに集中しようとしているか、軍団の位置を変えることで分かりにくくすることができました。また軽騎兵を横一列にならべ、カーテンのように歩兵の動きを隠すということもできたのです。

歩兵においても工夫が進んでいました。専門的な内容になってしまいますが、大陸軍は移動が早い縦隊陣形のまま戦うということができました。当時は歩兵部隊は敵に数百メートルまで近づいたとき、縦隊を3列横隊に組み換えマスケット銃の火力を高めることがセオリーでした。しかし攻撃するときに横隊で進むと歩調を合わせることが難しく、さらに横に広がるため命令が行き届かなくなることがありました。そこで大陸軍は機動性の高い縦隊のまま戦闘するという選択をすることがありました。

これらによって大陸軍は目まぐるしく変化し混乱しやすい戦場に、臨機応変に対応することができました。

 

イエナの戦い

大陸軍は主に3つに分かれ北上しているとプロイセン軍は認知していたものの、主力がどこにあるかわかりませんでした。ブラウンシュヴァイク公はホーエンローエ王子に合流するよう伝えます。しかし彼らが予期するより前にホーエンローエ王子の部隊がイエナで見つかってしまい、ナポレオンは各軍団に集結命令をだします。次の日は濃霧で攻撃には非常にリスクを伴いましたが、集結によりホーエンローエ王子の2倍の軍隊になったナポレオンはリスクを承知で各軍団に攻撃地点とその時間を割り当てます。(彼はこのとき敵が何人いるかは把握していませんでした) 一方でホーエンローエ王子は援軍がやってくるという推定のもと退却せず、倍以上の大陸軍に迅速に両側から攻撃され崩壊しました。

アウエルシュタットの戦い

この時ナポレオンの集結命令をもらい、北から本軍へ合流しようとダヴ―元帥の軍団が南下していました。アウエルシュタットに通りかかったところ、偶然ブラウンシュヴァイク公のプロイセン本軍と衝突したことによって戦闘が始まりました。

ダヴ―元帥はその冷徹さと完璧さから鉄の元帥といわれており、2万5千人ほどを指揮していました。対してブラウンシュヴァイク公は6万人を有し、プロイセン側に2倍以上の兵力がありました。あたり一帯濃霧に包まれ、双方相手の位置を直前まで把握できない気候でした。

プロイセン軍に前方の脅威についての報告が入ったとき、ブラウンシュヴァイク公は敵を少数の模索部隊であると過小評価します。彼の推定によると大陸軍はホーエンローエ王子によって錯乱され、より南に位置しているはずでした。またブラウンシュヴァイク公はプロイセン軍の質を信じており、ブリュッヒャー将軍が騎兵のみで前方の脅威を蹴散らせると助言したときに許可を与えます。

午前8時ごろ、ブルッヒャー将軍は数千人の騎兵を集めて未知の敵に突撃を開始しました。ダヴ―元帥の先方部隊を蹴散らすと進み続けます。この攻撃から逃げてきた大陸軍の騎兵が、プロイセン騎兵の到来を忠告するとダヴ―元帥は方陣という、騎兵に対抗する陣形に歩兵を組み替えます。方陣とは兵を四角形に並ばせることであり、全方位をカバーすることで騎兵が背後に回ることを防ぐ効果があります。この変形はたった30秒で完了し、まもなくプロイセン騎兵が霧の中から姿を現し始めます。プロイセン騎兵は繰り返し大陸軍の方陣に突撃を繰り返しますが、歩兵や大砲のサポートがないことには綺麗に整列された方陣の中に侵入することができず、次第に撃ち殺されていきます。ブリュッヒャー将軍は蹴散らされた騎兵を集めようとする最中馬が撃たれ、退却の命令も遅れたため損害が甚大となってしまいました。

騎兵が撃退されたすぐ後にプロイセン軍の最初の歩兵師団が到着しダヴ―の軍団と衝突します。ブラウンシュヴァイク公はまだ軍隊の優勢を信じていたため、他の師団の準備をまたずに単体攻撃の許可をだします。第一師団が攻撃する間、彼は南北に馬を走らせ、到着しつつある第2師団を攻撃の陣形へとガイドします。このような動作は、常に中央に立ち続けるナポレオンやダヴ―元帥とは対照的でした。常時動き回っているため、伝令がブラウンシュヴァイク公をみつけにくくなり混乱と遅延を呼びました。対してダヴ―元帥は高地に立っており、プロイセン軍の動きが目視できるため、迅速に命令を下すことができました。

このような命令速度の差から、色々な位置や角度で攻撃してくるプロイセン軍に合わせ、部隊を再配置することができます。9時30分ごろ継続的なプロイセン軍の合流で兵力差は2倍になるものの、プロイセン軍は指揮の乱れによって同時に攻撃を仕掛けていないため大陸軍を崩すことはできません。そしてついに前線で指揮していたブラウンシュヴァイク公の目が撃ち抜かれ、命令を下せなくなりました。

戦いの混乱の最中、ブラウンシュヴァイク公の負傷の知らせはしばらくヴィルヘルム3世に届かず、さらに指揮を継承するはずのカルクロイト将軍がそもそも戦場に到着していませんでした。伝令はいるはずのブラウンシュヴァイク公を探し回り、部隊同士の連携は取れなくなり各部隊が別々に戦うようになっていました。より上級の指揮官からの命令がなければ何も行動してはいけない規則でしたので、まだ投入されていない部隊は指をくわえてみているだけです。さらにブラウンシュヴァイク公の負傷がヴィルヘルム3世に届いたとき、なんと王は代わりの最高司令官を指名しませんでした。プロイセン軍がカオスと化す中、ダヴ―元帥とその軍は防衛から攻勢へと移り、2倍のプロイセン軍を押し戻します。12時ごろ、ヴィルヘルム3世は退却命令を出します。プロイセン軍はアウエルシュタットの狭い道を通過して退却を試みたため部隊は密集陣形を保てなくなり、フランス軍の追撃も相まって一人一人が個別に行動し始めてしまいました。1時間後には全ての組織的抵抗がなくなり、分散したプロイセン軍は夜まで追撃され、最終的には大陸軍の2倍の損害を被りました。

アウエルシュタットの戦いは倍以上の相手に倍の損害をあたえたという稀な戦いであり、その大きな要因はダヴ―元帥の速球で正確な部隊の再配置にありました。プロイセン軍は始めに騎兵だけを突撃させ、次に歩兵を攻撃させましたが、これらの孤立した攻撃は大陸軍の歩兵、砲兵、騎兵のコンビネーションに一つ一つ撃退されました。動きが遅く指揮官が不在となったプロイセン軍は流動的な大陸軍に勝ち目などなかったのです。

 

終わりに

大陸軍の素早さ、流動性、指揮系統の円滑さは様々な要因が組み合わさって生み出されました。これらの組織を統制するノウハウは、十分現代社会にも応用できます。しかし我々がいかに統制能力を磨いたところで、濃霧の中で銃弾が飛び交い、電子機器ではなく楽器や部下の叫び声が情報源の状態で、数万人を瞬時に動かすような能力を身に着けられるかどうかは別問題です。ナポレオン戦争の魅力とは、このことにあると個人的に感じております。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

他にもナポレオン戦争について解説していますので、興味のある方はこちらもお読みください。

https://news.clearnotebooks.com/ja/archives/3827

参考文献

https://www.napoleon-empire.com/battles/auerstaedt.php

The Battle of Jena-Auerstädt: 14 Oct 1806

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89